ささやかな終末

小説がすきです。

「名もなき花」を読んで感じたパーフェクトヒロインの幸福について

 

 日南葵の人生における最大の不幸は、彼女の中学校に雪ノ下雪乃桜島麻衣がいなかったことだ。誰もが認める高貴さや知名度を持ち合わせている少女たちと出会えなかったから、すべてを計算と努力で乗り越えてきたパーフェクトヒロインは、個人的な敗北を知ることができなかった。高校2年生になった今でも、知ることができない。だから彼女は、空っぽだ。

 

 日南葵は屋久ユウキ弱キャラ友崎くん』というライトノベルに出てくるヒロインの1人だ。成績が学年1位であることは当たり前、短距離走ではインターハイを狙えるほどの運動神経の持ち主で、容姿は端麗かつ華やか。スクールカーストのトップに燦然と位置しているにもかかわらず、気取らず親しみやすいキャラクターで誰からも愛されている。中学時代には女子バスケットボール部で部長を務め、県大会出場レベルだったチームを2年ほどで全国大会準優勝まで導いた立役者である。

  

弱キャラ友崎くん Lv.1 (ガガガ文庫)

弱キャラ友崎くん Lv.1 (ガガガ文庫)

 

  『弱キャラ友崎くん』は、主人公のぼっちで冴えない男子高校生・友崎文也が、とあるきっかけによってパーフェクトヒロイン・日南葵と同レベルのリア充になることを目指す、人生攻略ラブコメディである。2020年4月現在、このシリーズは本編8巻と短編集2巻の計10巻が刊行されている。累計発行部数は100万部を突破し、アニメ化も決定した。人気のラブコメが次々に生まれているガガガ文庫を代表する作品で、年に1度の投票企画「このライトノベルがすごい!」では8位(2017年度)→7位(2018年度)→3位(2019年度)→3位(2020年度)と刊行当初から絶えることなく上位入賞を果たしている。

 

 そもそも私がこのシリーズに興味を持ったのも、「このライトノベルがすごい!」で連続入賞していたことがきっかけだ。異世界転生ものがいちばんの人気ジャンルになっている数年のあいだはあまりライトノベルの新作を手に取っていなかったのだが、2019年になってひさしぶりに学園ものの波が来ていると知り、筆頭作品を読んでみたくなったのだ。いくつも気になっている作品がある中で最初に購入したのがこのシリーズの1巻である『弱キャラ友崎くん Lv.1』だったのは、かの名作、渡航やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(アンソロジーも好評発売中)を刊行しているガガガ文庫の作品だったからというのが大きい。安心と信頼のガガガ文庫である。

 

 

  1巻で友崎は当の日南の完全プロデュースの下で“人生の課題”に挑んでいく。初期の課題は「顔とお尻の筋肉を鍛え表情と姿勢をよくする」「自分の声を録音して会話の練習をする」といった家でできるものから始まる。次に、友崎が慣れてくると、「1日に3回以上女子と会話する」「クラスメイトとグループで下校する」「自分でクラスメイトを遊びに誘い計画を立てて相手を楽しませる」という風に課題を達成するハードルが徐々に上がっていくのである。

 

 このシリーズの初期のおもしろさは、友崎の成長にある。学校でほぼ誰ともコミュニケーションを取ることができなかった友崎が、テクニックを覚え相手の特徴や好きなことを知っていくにつれて、いわゆるリア充グループの生徒とも会話が続くようになったり、楽しんで遊べるようになったりする。クラストップリア充・中村との対決を終えた友崎に、日南がささやかなご褒美をくれる1巻のラストまでの展開は、とても楽しいものである。その後も、生徒会選挙に合宿に文化祭と、7巻まではノンストップで、悩みもあるけれど楽しい展開が続いていく。夢中になってひと月と少しで読み終えてしまった。2019年の春の話だ。

 

※この先の文章は『弱キャラ友崎くん』の日南と友崎の関係の現時点までの展開のうっすらとしたネタバレを含みます。未読の方はご了承の上お進みください。

 

 友崎の成長と並行して見えてくるもう1つのおもしろさは、日南と友崎の対比だ。すべてのタスクをこなすハイスペックの持ち主である日南を、友崎は心の中で“魔王”と呼ぶ。3巻では課題だけを淡々と提示する日南と友崎の方針が食い違い、友崎はすべての課題を「楽しみながら」こなした上で日南と同程度のリア充になることを目標にする。なぜならば、師匠の日南自身はパーフェクトヒロインでいることを少しも楽しんでいないからである。

 

 1巻の時点で明かされることだが、日南葵は友崎をプロデュースするために一から課題を考えたのではない。友崎がこなしていく課題は、すべて中学1年の日南が達成してきたものだった。彼女は生まれたときからパーフェクトヒロインだったわけではない。顔はかわいいほうではあるが目を瞠るほどの美少女というわけではないし、中学入学時の成績はいたって平均的だった。

 

 しかし、中学1年生のある時期から、彼女は変わった。表情や姿勢、声のトーンやささいな仕草にまで気を配って家ですべてを練習し、ナチュラルメイクの研究を欠かさず、努力して成績を伸ばしコツを掴んでからは学年1位を維持した。バスケットボールの練習にも励み、スパルタと優しさの緩急を付けながら部員たちを励ました。そして受験に合格し、県内では成績上位の部類に入る私立高校に入学してからも、人心掌握の術を身につけ弛まぬ努力を続けている日南に勝利できる同級生は現れなかった。挑んだ友人はいたけれど、日南より秀でることは難しかった。

 

 友人との会話で癒されたり、目標を達成して喜んだりすることはあるだろう。チーズ料理を食べたり、オンラインゲームに没頭したりする日南は楽しそうに見える。しかし、チーズ料理に我を忘れるほど興奮気味に食いつく日南は、友崎にそれも1つの親しみやすさのための演出なのだろうと分析される。ゲームに関しては楽しむことよりもまずは1位を獲ることが目的だ。そんな日南はあるとき、事情を知らない1人のヒロインから間接的に、空っぽに見える、と告げられる。これがパーフェクトヒロイン日南の、ほとんどのひとが知らない影である。

 

 日南葵がそうなるに至った背景としては家庭環境が示唆されている。日南の核に迫っていくであろう今後の展開が楽しみなシリーズであることに間違いはないのだが、ここでは真実が明かされる前に、彼女が抱える空虚さの理由を語りたい。冒頭で言ったことを今一度繰り返すと、すべてを計算と努力で乗り越えてきたパーフェクトヒロインの最大の不幸は、これまでの人生で、自分より圧倒的に優れている人物と戦って敗北する経験を味わえなかったことである。

 

 日南葵の基本スペックは、他のライトノベル作品のヒロインよりも低く設定されているように思う。運動に関しては類まれなる素質があったようだが、学力と美貌に関しては、小学生の頃から頭角を現していた、ということはまったくない。対して、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』ヒロインの雪ノ下雪乃の小学生時代はどうだろう。小学校高学年のときには目立ちたい女子のグループから排斥されていた、というエピソードは1巻で語られるものである。詳しく語られることはなかったが、4巻以降の、幼なじみ・葉山隼人の後悔を聞くと、クラス全体からつまはじきにされていた可能性まで出てくる。出る杭は打たれる。頭脳明晰で家柄もよく何でもできて、何より圧倒的にかわいいという雪ノ下雪乃は、そのハイスペックさによって疎まれた経験が心に壁を築き、その結果、高校2年生になるまで友人を作ることができなかった。

 

 一方の日南葵は、中学1年生のある時期までは普通に生きてきた。それなのに2年後には、学年1位に君臨し続け、バスケットボールの全国大会でチームを準優勝にまで導いた。もちろん、もともとの素質があったのだろうと推測できる。しかし、日南の急成長を阻む同級生は1人もいなかったのだろうか、と思うと少し悲しくなる。

 

 私は埼玉県の中学生事情をまったく知らないが、少し口コミを調べてみたところ、小学生のうち4分の1ほどは私立中学に入学するらしい。つまり、頭のいい子どもが抜けた後に、ほどよく勉強ができる同級生が残っていたと考えると、効率よく努力した日南がトップに躍り出ることも十分に可能だろう。

 

 バスケットボールに関しても、最初は一公立中学が全国準優勝できるものなのか、と疑問を抱いたものの、少し調べるだけで埼玉県の公立中学校は何度も全中優勝を果たしているとわかった。日南の中学にももともと優秀な指導者やプレイヤーが集まっている環境があって、日南が部長として活躍し練習を強化することで準優勝まで辿り着いたのだろう、と補完すると、不自然なことではない。

 

 だが、たとえば彼女の出身中学に前述の雪ノ下雪乃がいたならば、日南葵は学力で1位にはなれなかっただろう。たとえば彼女の出身中学に鴨志田一著の青春ブタ野郎シリーズのヒロイン・子役女優の桜島麻衣がいたならば、日南葵は本物の有名人とはどういうものなのか理解しただろう。他にも、たとえば彼女の出身中学に西尾維新著の物語シリーズのヒロイン・恐るべき脚力を誇る神原駿河がいたならば、ひょっとしたら部が誇る名コンビとして全中優勝できたかもしれない。つまり、私が言いたいのは、日南葵はあの『弱キャラ友崎くん』の世界観だからこそ常にいちばんでいられるということだ。

 

 

  日南葵は、1位を獲らなければいけないという半ば強迫観念めいたものに囚われている。その考えには中学1年生のときに起こった、未だ小説の中では明かされぬ”何か”が関係している。だからだろうか、日南は高校進学のときにも、県内トップの進学校に入学することはなかった。

 

 日南と友崎たちが通う私立関友高校は、“県内では上位の私立だが、進学校と比べると中途半端な立ち位置”とされる。何がどう中途半端なのかは忘れてしまったのだが、この文脈だと学力的に中途半端ということだろう。すっかり忘れてしまっていたこの情報をWikipediaで見たとき、私は不思議な気がした。なぜ日南葵は県内トップの私立高を目指さなかったのだろう、と。1位を目指すパーフェクトヒロインは、そうあらねばならぬのではないか? ちなみに、関友高校の校章のモデルになったとされる噂される開智高校は、埼玉県内で1、2を争う偏差値の高い私立高校である。実績からみても進学校でないはずはない。ではこの、関友高校の”中途半端”な立ち位置は、何を意味しているのだろうか。

 

 初めに思いついたのは、バリバリの進学校として設定してしまうと融通が利かなくなるからかもしれない、ということだ。県内トップの進学校は、絶対に授業が難しくて予習復習が大変である(と思う)。毎日放課後に集まったり頻繁にバイトのシフトに入ったりすることが難しいとなると、主人公とヒロインの設定からして等身大のリアリティを求めるこのシリーズではキャラクターが動かしにくくなってしまう。それよりも、学力上位ではあるが進学校というほど進路指導に力を入れていない高校という設定にしたほうが、学校生活以外の面が描きやすくなる可能性が高い。

 

 日南葵の全国模試での順位はどれほどなのだろう、という疑問はそれに付随して生まれたささやかな関心事である。他のトップ校には勉強だけに心血を注いでいる高校生たちが何百何千といるはずで、関友高校内でトップであることは必然だとしても、全国レベルで見れば日南は1位ではないはずだ。それに日南が落ち着いていられるだろうか。だって日南は一度全国を相手に戦ったことがあるのに。もちろん、学力は評価の一面に過ぎない。インターハイ出場かつ偏差値高め、というだけでも日南の努力は十二分にうかがえる。だからこそ、日南がどこで線を引いているのか、ということは気になってくるのである。(ちなみに余談ではあるが、これまで読んできた小説の中で間違いなく全国模試総合1位だと確信できるキャラクターは、物語シリーズのバサ姉こと羽川翼だ。彼女に対する描写は飛びぬけている。)

 

 日南葵がどこで線を引いているのか、を考えたときに浮上した、関友高校が進学校として設定されていない2つ目の意味は、日南葵は1位を獲れる場所にしか行けなかったのではないのではないか、という、少しだけ悲しくなる推察だった。それは、物語上の要請においてなのか、それとも日南葵の判断なのか。もしかすると、彼女が関友高校に入学した理由が語られた箇所があったかもしれないのだが、よく覚えていない。学業と部活動を両立しながら、放課後の友人との交流やゲームの鍛錬、そして人心掌握の努力まで、すべてをこなせる場を選んだのかもしれない。日南葵が自分のことをよくわかっていてそう選んだなら、彼女は気高い。けれど、そこに彼女の意思が介在しないのであれば、それほど悲しいことは他にない。

 

 『弱キャラ友崎くん』と、これまで引き合いに出した『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』や青春ブタ野郎シリーズ物語シリーズとの最大の違いは、アイドル的ヒロインの不在にある、と私は考える。日南葵だけでなく、七海みなみも菊池風香も泉優鈴も夏林花火も成田つぐみも、親しみやすいキャラクターだ。ここでの親しみやすいには、2つの意味がある。1つは、平凡な主人公が日南にアドバイスを受ければ簡単に近づいていける、という意味。もう1つは、読者の身近にいてもおかしくない、という意味だ。しかし、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣も、比企谷八幡にとっては最後まで話すのに覚悟がいる女の子だし、その辺にはいない特別な女子高生だ。桜島麻衣や牧之原翔子は、一方は芸能人、もう片方はかつて出会った憧れのお姉さんと、梓川咲太や読者にとってはいつまでも貴い存在だ。戦場ヶ原ひたぎ羽川翼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードに関してはもう言うまでもない。キャラクターと言い名前と言い個性が炸裂している。この3作品のメインヒロインズに対して言えることは、主人公にとっても読者にとっても、どこか遠い、憧れの女の子であるということだ。

 

化物語(上) (講談社BOX)

化物語(上) (講談社BOX)

  • 作者:西尾 維新
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

  『弱キャラ友崎くん』のヒロインの魅力は、そこにはない。彼女たちは遠くない。ナチュラルメイクが上手くて文武両道のクラスメイトくらいならいそうだし、気さくに笑いかけてくれるちょっとポンコツな美人くらいならいそうだし、本が好きでおとなしいかわいい女の子くらいならいそうだし、ギャルっぽいけれど実は一途な明るい美少女くらいならいそうだし、ちょっと変わっていて小柄な女子生徒くらいならいそうだし、馴れ馴れしくしてくるアルバイト先の後輩くらいならいそうである。そもそも、美貌や体形はこのシリーズにおいてさほど行数を割いて描写されない。フライ先生の挿絵を見れば、かわいい子たちであることはわかるのだが。

 

 つまり『弱キャラ友崎くん』において、ヒロインはアイドルの座から引きずり降ろされた。圧倒的ヒロインを努力次第で他のひとも目指せる普通の女の子にした。その結果として、日南葵はパーフェクトヒロインにもかかわらず「このライトノベルがすごい!」女子キャラクター部門で2年連続トップ10にランクインしている七海みなみより遥かに下の順位に甘んじている。日南推しの私としては残念な結果だ。

 

 8.5巻刊行時点では、友崎は日南に気がある素振りを一切見せないし、逆もまたしかりである。日南の過去に触れることは示唆されているものの、触れ終わったときに日南と友崎が恋愛関係になっている想像はまったくわかない。だって2人は、師匠と弟子の域を出ない関係性だからだ。2人が対等になるとしても、それはゲーマーとしてか、ゆくゆくは校内トップクラスリア充としてでしかない気がする。1巻の表紙のヒロインなのに日南に人気がないのは、そういった理由からだと推測される。

 

 『弱キャラ友崎くん』において何よりも重視されていると感じるのが、リアリティだ。ヒロインにも主人公にも、努力次第で誰だってなれる。そのための方法は、すべて小説の中に書いてある。友崎と同じ課題をこなして新たな自分を目指す「友崎くんチャレンジ」に挑む読者の姿はSNS上で散見される。このシリーズを読んでチャレンジする読者はきっと、以前の自分に思うところがあったひとたちだろうから、努力して目標を達成するのは素敵なことだと思う。その後押しにこのシリーズがなれていることも、ヒットの要因ではないかと思う。もちろん、思うところがあっても行動に移せない読者もいて、そんな読者は友崎を応援したりヒロインを愛でたりして楽しめるようなストーリーになっている。

 

 でも、努力しても、倒すべき強敵がいないのであれば、空っぽになる。友崎のように何事も楽しめる素質がないと、どこかでむなしくなる。目標を達成して、その後、日南と友崎は幸せになれるのだろうか。かつて先人たちが願い焦がれた本物を手に入れられるのだろうか。それとも、本物の幸せのことなんて微塵も考えずに、大人になっていくのだろうか。物語にこの世界で誰も見たことのない甘くて優しい何かを求めるひとは、どんどん減っていくのかもしれない。だが、日南より七海みなみに魅力を覚えるひとが多いうちは、まだその日は遠いだろうとも思う。結局のところ、努力は才能に勝てないのだろうか、そんな戯言を考えてしまう。

 

 私はきっと、信じていたい。物語の登場人物はどこか遠くにいて、青く煌めいているのだと、そんな世界がどこかにあるのだと。身近でなくていい、天上で輝いていてほしい。現実みたいな物語よりも、物語みたいな物語を見ていたい。甘くてほろ苦い青春を送っていてほしい。そして、それに憧れていたい。だってそのやりかたしか知らないから。これ以上置いていかないでくれ、としがみつくしかないのだから。

 

 友崎文也はこの先、比企谷八幡梓川咲太や阿良々木暦と同じレベルの挫折を味わうことはないし同じレベルの犠牲を払うこともないだろう。友崎は彼なりに人生を謳歌していく。そして日南葵はこの先、雪ノ下雪乃桜島麻衣に打ち負かされることはたぶんない。だって彼女はパーフェクトヒロインだからだ。日南は彼女なりに1位を獲り続けていく。ファンの読者にとっては、その身近な青春が輝く青なのだろう。けれど私にとっては違う。日南葵という努力家でかわいくてかっこいいヒロインを、その場所から引きずり出したいとさえ思う。雪ノ下雪乃桜島麻衣を倒して、本物の1位を獲らせてあげたいと思う。空っぽでなくしてあげたいと思う。私は『弱キャラ友崎くん』の読者で、日南葵のファンだからだ。

 

 日南葵に幸せな結末が訪れることを、本心から希っている。

弱キャラ友崎くん Lv.8 (ガガガ文庫)

弱キャラ友崎くん Lv.8 (ガガガ文庫)

2010年代の小説 マイベスト10

はじめに

  もうすぐ2010年代が終わるらしい。まったく実感はないけれど、カレンダーを見るに確からしいのだ。


 2010年から2019年にかけて、たくさんの小説を読んだ。笑ったり、泣いたり、驚いたり、楽しくなったりした。それならば、一年につき一冊ずつ「いちばんおもしろかった本」を選んでいけば、私なりの2010年代の本ベスト10ができあがるのではないか、と気づいたのは、つい三週間前のことだ。

 

 選定は困難を極めたが(何せおもしろい本が多すぎる!)、この10年間に読んだ小説たちのことを思い出していく時間は、言葉にしつくせないほどしあわせなものだった。

 

2010 『ふたりの距離の概算米澤穂信

ふたりの距離の概算 (角川文庫)

ふたりの距離の概算 (角川文庫)

 

 奉太郎はマラソン大会を走りながら、新入部員の心変わりの理由を推理する。……彼女が入部を取り止めたのは、本当に千反田のせいなのか? 古典部シリーズ第五弾。


 この年の冬、『春期限定いちごタルト事件』を始めとする小市民シリーズを読んで、ほろ苦い青春ミステリにはまった。古典部シリーズは小市民シリーズと比べて、主に装丁の面で取っ付きにくく後回しにしていたのだが、いざ読み始めてみると甲乙つけがたいほどおもしろくて、すぐに最新刊まで読んでしまった。
 

 走りながら推理するという前代未聞の設定がまずおもしろい。古典部員とは追い抜かされる一瞬しか話せない状況の中で、これまでに起こったいくつかの事件とささやかな違和感を思い出しながら、次々と真相に迫っていく奉太郎に感嘆した。手はどこまでも伸びるはず、ならば彼はいつか手を伸ばすのだろうと、そんなことを思った。

 

 2011 『いわゆる天使の文化祭』似鳥鶏

いわゆる天使の文化祭 (創元推理文庫)

いわゆる天使の文化祭 (創元推理文庫)

 

 もうすぐ文化祭という夏休みの終盤、葉山君が準備のために登校すると別館中に目付きの悪い“天使”の貼り紙が貼られていた。手の込んだ悪戯かと思いきや、事態はきな臭くなっていき……。市立高校シリーズ第四弾。
 

 2011年秋、『理由あって冬に出る』から始まる市立高校シリーズを読んですっかりはまった。12月に新刊が出る、と知って楽しみにしていたところに、この『いわゆる天使の文化祭』である。『文化祭オクロック』『クドリャフカの順番』などを読んで“文化祭ミステリ”と聞くだけで胸が躍るようになっていた私の、好みの中心を射抜く作品だった。


  今真相を思い出すだけでも鳥肌が立つ。この衝撃はいつまで経っても忘れられない。市立高校シリーズは2016年の『家庭用事件』以降なかなか刊行がないが、ぜひ続いてほしい。気長に待っていようと思う。

 

2012 『サクラダリセット7 BOY, GIRL and the story of SAGRADA』河野裕

 

  能力者の街、咲良田。すべての記憶を保持できる高校生・浅井ケイは、世界を三日間だけ巻き戻せる同級生・春埼美空と共に奉仕クラブの一員として助力している。だがそれは二年前に死んでしまった女の子を生き返らせる方法を探すためで……。シリーズ最終巻。


 完結してから読み始め、ほぼ一気読みした。2010年代、私はたくさんのライトノベルを読んだが、いちばんおすすめのシリーズは、と聞かれるとこの『サクラダリセット』を選ぶ。それくらい好きだ。


 主人公のケイは、誰も彼もが幸せでありますようにと祈り、幸せを守ろうと行動し続ける。彼の思考は美しく、それはそのまま文体の美しさにも繋がっている。さまざまな伏線がシリーズ全体に散りばめられていて、すべてが回収されていく爽快感は何物にも替えがたい。


 2016年から2017年にかけて、角川文庫版が出版された。2017年にはアニメ化も映画化もされた。とてもうれしいことであった。

 

2013 『命の後で咲いた花』綾崎隼

命の後で咲いた花 (メディアワークス文庫)

命の後で咲いた花 (メディアワークス文庫)

  • 作者:綾崎 隼
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


 春、教員を目指して第一志望の大学に入学したなずなは、年上の同級生・羽宮透弥にピンチを救われる。こちらを突き放してくるけれど肝心なときには優しくて、どこか陰のある透弥に惹かれたなずなは、意を決して想いを伝えるが……。デビュー五周年記念作品。


 ノーブルチルドレンシリーズ、花鳥風月シリーズや『INNOCENT DESPERADO』を読んだ後、満を持して単行本の作品に挑んだ。ワカマツカオリさんの表紙も本当に美しい。私が、単行本を持っているのに文庫を買った、初めての本である。


 “たとえば彼女が死んでも、きっとその花は咲くだろう。絶望的な愛情の狭間で、命をかけて彼女は彼のものになる。” このコピーの意味がわかったとき、涙が溢れてきてしばらく止まらなかった。構成もとても秀逸で、何度も何度も読み返して浸りたくなる。恋愛小説をあまり読まないひとにも、この本は全力でおすすめしたい。

 

2014 『いなくなれ、群青』河野裕

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

  • 作者:河野 裕
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/08/28
  • メディア: 文庫

 

 人口二千人ほどの小さな島、階段島。ここがどこなのか、なぜ自分はここにやってきたのか、ここにいるひとたちは誰も知らない。この島での安定した日常を受け入れている高校生・七草は穏やかに過ごしていたが、彼の前に幼馴染の真辺由宇が現れて……。彼女だけはこの島に現れてほしくなかった。その理由とは、そしてこの島の意味とは? 階段島シリーズ第一弾。


 新潮文庫nexの第一回配本。河野裕竹宮ゆゆこ相沢沙呼似鳥鶏、といった名前が刊行予定のラインナップに上がっているのを見たときには、狂喜乱舞した。この、私の好みの作家さんたちを集めてきてくれたような新レーベルはいったい! 発売日は忘れもしない8月28日で、学校帰りに買いに行ったのである。


 情景描写の繊細な美しさ、七草と真辺の人物設定の妙、ピストルスター、そしてやがて明かされた真実の残酷さ。どこをとっても胸を穿つ。まさに“新時代の青春ミステリ”だ、と思わされた。めちゃくちゃ好き。


 2019年にはシリーズが完結し、映画化もされた。いつかロケ地巡りをしたい。

 

2015 『つれづれ、北野坂探偵舎 感情を売る非情な職業』河野裕

つれづれ、北野坂探偵舎 感情を売る非情な職業 (角川文庫)

つれづれ、北野坂探偵舎 感情を売る非情な職業 (角川文庫)


 作家と元編集者は、今日もカフェで背中を向けあってストーリーを作っていく。言葉の一つひとつに神経を尖らせ、小説に愛情を持って。そんな二人の元には、ときおり幽霊絡みの相談が持ち寄られ……。名コンビの過去を描いたシリーズ第四弾。


 階段島シリーズの影に隠れてひっそりと完結した感は否めないが、とても好きなシリーズなのだ。小説を好きなひとにはもれなく、彼らを始めとする登場人物たちの言葉や姿勢が刺さるはずである。


 一巻から三巻までは、依頼を解決していくライトミステリーなのだが、この四巻からは一気に小説を巡る物語になっていく。元編集者・佐々波が編集者だったころのこと、そして優秀な校正者である彼の恋人の話が語られていき、終盤では心のいちばんやわらかいところをガツンとえぐられる。アップルパイをひときれ食べてため息をつく、その行為にこんなにも狂おしい意味を持たせた小説を、私は他に知らない。


 シリーズは2018年に無事完結した。もっといろんなひとに読まれてほしいなぁと、切実に思う。

 

2016 『小説の神様相沢沙呼

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)


 右肩下がりの売り上げと酷評に苦しめられている高校生作家の千谷一也はある日、同じ高校に通う売れっ子美少女作家・小余綾詩凪と合作小説を書くことになる。小説を書く苦しみと、その先にある煌めき。「小説は、好きですか?」この一言から走り始めた、不器用な青春の物語。


 『午前零時のサンドリヨン』を読んでから、ずっと好きな作家さんだった。西尾維新、野﨑まど、野村美月似鳥鶏綾崎隼杉井光といった講談社タイガの執筆陣の中に名前があるのを見てから、どんな作品が読めるのか、とても楽しみにしていたのだ。


 小説を戦場にして、ずっと血を流しながら戦ってきたひとだけが書ける物語だった。傷つくことに怯えながら、それでも自分の身を削って書かれた物語が、私の胸の奥に楔を打ち込んだ。


 2019年、『小説の神様』の映画化が発表された。それと前後して、『medium 霊媒探偵城塚翡翠』が年末のミステリ界の話題をかっさらった。なんだかとても感慨深くなってしまう。

 

2017 『狩人の悪夢』有栖川有栖

狩人の悪夢 (角川文庫)

狩人の悪夢 (角川文庫)

 

 そのホラー作家の別荘には、“眠ると必ず悪夢を見る部屋”があるという。推理作家・有栖川有栖がその部屋に泊まった翌日、近くの小屋で手首を切り落とされた女の死体が発見された。臨床犯罪学者・火村英生は捜査に乗り出すが、事態は混迷を極め……。シリーズ傑作長編。


 2016年1月期に放送されたドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』を観て、有栖川有栖にはまった。2016年の秋には火村シリーズも江神シリーズも読み、他の作品にちまちまと手を出しながら、連載中の長編『狩人の悪夢』が一冊にまとまる日を今か今かと待っていた。美しい装丁の単行本を購入したその日、手に震えが走ってなかなか読めなかったことを、昨日のことのように覚えている。


 不可解な殺人事件、論理を連鎖させて犯人を追い詰めていく推理の堅実さと美しさ、そして火村とアリスのバディの絆。読みたいものが余すところなく描かれている。前作『鍵の掛かった男』も大好きで、去年まではこちらの方を推していたのだが、2019年の今年、『狩人の悪夢』が念願のドラマ化を果たしたこともあって、現在ではどちらも同じくらい好きな作品になっている。

 

2018 『君の話』三秋縋

君の話

君の話


 僕には一度も会ったことのない幼馴染がいる。夏凪灯花。彼女は技術によって植え付けられた架空の記憶の中にしか存在しない人物だ。そのはずだった――。これは、出会う前から続いていて、始まる前に終わっていた、100パーセントの女の子との恋の物語。

 

 『三日間の幸福』を読んで以来ずっと大好きな作家さんがとうとう単行本を出す、ということで、とても楽しみにしていた。特典ペーパーがあると知って、大きな本屋さんに取り置きをお願いしたのをよく覚えている。

 

 章が終わるごとに鼓動が高鳴り、何度かは鳥肌が立った。込められたの想いの切実さはストーリーだけでなく文章や文体にも表れていて、句読点の位置や余白の取り方にさえ心地よさを感じた。千尋と灯花の挿話の一つひとつは丁寧に磨かれていて、私の理想を的確に撃ちぬいた。

 

 この、透明な祈りで満たされた静謐な物語が、波長が合う人のもとへ届きますようにと、今でも強く願っている。私にとって特別な一冊だ。

 

2019 『この夏のこともどうせ忘れる』深沢仁

(P[ふ]4-7)この夏のこともどうせ忘れる (ポプラ文庫ピュアフル)

(P[ふ]4-7)この夏のこともどうせ忘れる (ポプラ文庫ピュアフル)

 

 塾の夏季合宿で。憧れの兄妹の家で。夏祭りの夜に。高校生活最後の夏に。夜の海辺で。高校生たちの、いつかは過去になる濃密な夏のひとときを切り取ってガラス瓶の中に閉じ込めた、奇跡のような短編集。

 

 刊行予定リストを見ていたら、タイトルがパッと目に入ってきた。今年の夏は、素敵な夏を描いた作品を多く読んだのだけれど、その中でもとりわけ、心に深く残った一冊だ。2018年までは、好きな作家さんの、長編やシリーズものばかりがトップになってきたが、ここにきてこの作品しか読んだことのない作家さんの、かつ一編一編が完全に独立した短編集がいちばんになったことに、自分の中で何かが変わりつつあることを感じる。


 少年と少女が過ごす時間たちは、儚くて、退廃的で、溺れたくなるほど輝いてみえた。いちばん胸を穿たれたのは、四編目の「生き残り」だ。まっすぐに恋をする女子高生が、同級生の男の子の事情を深く知り、腕を取ってどこかへ行こうとする。ずっとどこまでも行けるわけではないことを知りながら、それでも永遠を手に入れようとする姿に、胸がじくじくと痛んだ。

 

おわりに

  あれもおもしろかった、これもおもしろかった、と思い出しながら選んでみた。紹介できなかった小説は無数にあり、番外編を書くことをひそかに目論んでいる。

 

 書いているうちに、「ベスト10と題するならば一位から十位まで順位をつけなければいけなかったのではないか?」という疑問が湧いてきたが、この企画の根幹を揺るがす大問題に発展する予感がしたので突き詰めないことにした。ベスト10(順不同)である。

 

 来るべき2020年代、私はどんな小説を読むのだろう。今からわくわくが止まらない。