ささやかな終末

小説がすきです。

「新海誠好きの元彼」同人誌企画への3つのモヤモヤ、あるいはごく個人的な悲しみについてのこと

 

はじめに

 

今、巷で“みなさんの「新海誠好きの元彼」の思い出を語った同人誌を出そう!”という企画が進行している。企画者の方は文芸評論家で、約10冊の単著を刊行しているほか、YouTubeでも活動したり、大学で講師を務めたりと、様々な場所で活躍されている。SNSで「新海誠が好きだった元彼を持つ文化系女子が多い」という主旨のつぶやきを行った結果、彼女の元に「私にも新海誠が好きだった元彼がいます!」とのおたよりがたくさん集まるようになったらしい。また、彼女のその投稿を受けて誕生したこちらのnote(https://note.com/hummm09/n/n71120bcb127c)も大きな話題となり、新海誠本人が反応を示すまでに至った。今回の同人誌制作は、それから約2年、満を持しての企画というわけだ。

 

私はこの企画に、大きく分けて3つのモヤモヤを感じている。

 

そもそも企画者はどのような意図で同人誌を作ろうと思ったのだろう。思い出エピソードの投稿フォームには、建前として“「新海誠好きの元彼」は案外日本のカルチャー史において忘れ去られそうな2010年代の記憶をアーカイブするひとつの重要な要素”であるとの考えを持っていること、そして“私としてはこの同人誌の売り上げで資金をつくり、いつか「新海誠好きの元彼がいる女たちでオフ会をしたい」というのが私のインターネットの夢です……。実現可能性は置いといて、私のサイン会や質問箱におたよりをくださったみんなで、集まりたくない……?”という本音があることの2つが書かれている。

 

投稿フォームの文章は、おそらく気軽に投稿してもらうためであろう、かなり砕けた調子で書かれている。ここにはまったく書かれていない思いが企画者の胸の内に秘められている可能性だって、当然ある。私がこの先書くことは、まったく的外れなのかもしれない。実はそうであってほしいと、心の底から願っている。

 

この件についての私の、モヤモヤをできる限りオブラートに包んだSNS投稿がこちら。自己紹介も兼ねて示しておく。

 

 

①見知らぬ誰かを笑いものにする態度およびそのことで資金を稼ごうとする姿勢にモヤモヤ

 

投稿フォームに置かれたエピソードの例を見る限り、企画者が求めているのは「新海誠好きの元彼」と新海作品を一緒に観たとか、聖地巡礼に一緒に行ったとか、そういう楽しい思い出ではない。「新海誠好きの元彼」のこんなところが嫌で別れた、こんなところがまるで理解できなかった、という経験談である。そして企画者はそれを「素敵なエピソードは同人誌のなかで紹介させていただきます」と募る。

 

投稿フォームの例や前述のnoteのQ1やQ5の回答を見る限り、企画者は回答の多くが「新海誠好きの元彼」をばかにしたり、笑い飛ばしたりするものになることを理解している。つまり企画者は、単純な言葉にしてしまえば、回答者から「新海誠好きの元彼」への悪口や嘲笑を集めて同人誌にしようと試み、あまつさえオフ会をして楽しむためのお金を稼ごうとしている、という風にしか、私には読み取れないのである。

 

回答者の中にはもしかしたら「新海誠好きの元彼」にひどく傷つけられて、彼をばかにしたり笑い飛ばしたりすることでしか精神を保てない人もいるかもしれない。そういった切実さも、なかにはあるのではないかと想像する。だからこの同人誌企画が、たとえ企画者の本音のみで作られたとしても、完全に悪いものである、とは私には言い切れない。

 

また企画者は、建前とはあるものの、「アーカイブ」という目的を書いている。私はこれはとても大切な行為であると考える。研究目的と書いてしまっては集まらない貴重なエピソードが、こういったややふざけた姿勢で募ることで集積されるのかもしれない、とも。しかし、企画者のそういった誠実さは、少なくともこの投稿フォームからは、やはり読み取れなかった。

 

②企画者の立場にモヤモヤ

 

前掲のnoteは、文中の言葉を借りれば「当事者研究」である。新海誠が好きな大学生が、自分たちのことをより深く理解するために、「新海誠好きの元彼」がいる人々にアンケートを回答してもらった。なかには明らかに「元彼」をばかにしている、そしてそんな自分に酔っている、ものすごく嫌な気分になる回答もある。けれどそれを募って紹介している執筆者が「当事者」なのだから、note企画自体に嫌悪感を覚えることはない。その「研究」が彼らなりの、自身の傷や、傷にもならなかったものたちへの向き合い方なのではないだろうか。

 

ひるがえって今回の同人誌企画は、目的を大きく異にするものだ。投稿フォームを読む限りでは、「新海誠好きの元彼」エピソードの収集およびその話をして盛り上がるための資金調達が主たる目的である。そしてそれをしているのは、気鋭の文芸評論家なのだ。いち大学生が行うのとは意味合いが違う。

 

私はその、暴力性のようなもの、に危機感を覚える。これを読んだ誰かが傷つくのではないか、という危惧だ。ただし企画者は、おそらく傷つかないだろう。当事者ではない彼女は安全圏の高いところから悲鳴を聞いて楽しんでいる。そういったイメージがぬぐえないことも、私がこの企画にモヤモヤしている理由の1つである。

 

③他者を傷つける可能性を考慮していないことにモヤモヤ

 

傷、傷、と何度か書いた。企画者はもちろん、誰かを傷つけたり、攻撃したくてこの同人誌を作りたいわけではない。でも傷つく人はたしかにいる。それはたとえばここで笑われた「新海誠好きの元彼」であり、今新海誠を好きな誰かでもある。

 

そもそも、と思う。「新海誠好きの元彼」ってひどい言い方だ。「新海誠が好き」は人間の一側面でしかなく、その人にはこれまでの人生も、他の好きなものもある。たしかにその人はちょっとおかしな言動をして「新海誠好きの元彼」がいるあなたを困惑させたかもしれない。あなたはそのことでひょっとしたらものすごく嫌な目に遭ったのかもしれない。しかしそれはその人が「新海誠が好きだから」、だけではないだろう。新海誠作品にも、新海誠本人にも失礼であるように感じる。

 

「こんな新海誠好きの元彼がいてさぁ」とラベルを貼って括るとき、あなたとその人の、一人の人間と人間としてのかかわり、たしかにそこにあった大切なもの、がごっそりと抜け落ちる。もう別れたから大切なものなんてない? 笑い話にするくらいでいい? それはあまりにあんまりな考え方だと、私は思ってしまう。ねえ、あなたはいつもそんな軽い気持ちで人と付き合ってるんですか? ひょっとして付き合っている最中でさえ笑っていたんですか?

 

今、この文章をこうして書いている私は、きっと現在進行形で誰かを傷つけている。この同人誌の完成を心待ちにしているあなたを。回答したあなたを。「新海誠好きの元彼」その人でさえ。それを傷である、と無邪気に呼ぶことすら、傷になるのかもしれない。けれど私はせめて、そのことを自覚していたい。罪悪感を覚えていたい。それが誰かの傷に触れるときの、私なりの矜持だ。

 

おわりに

 

書きながらずっと、モヤモヤの正体について考えていた。

 

最初は怒りだと思っていた。自分にとって大切なものを踏みにじられている気がして、どうしても見逃せなくて、だから私は、私のために怒るのだと。

 

でも、最後まで書いて分かった。これは悲しみだ。モヤモヤが悲しみであると受け止めてしまえばとてもつらいから、私は怒ったのだ。

 

みんなそうなのかもしれない、と思う。SNSを見ていると毎日誰かが何かに怒っている。人々は怒ることでなんとか自分を保とうとしているのではないだろうか。だって彼らには生活があり、人生がある。いちいち悲しんでいてはいられないのだ。怒って発散したほうが、たぶんちょっとだけ生きやすい。

 

ぐるぐると考えている。たとえば、悲しみと認識したその気持ちについて「私は悲しいです」と書くことは、「私は怒っています」と書くことよりもよくないのではないか。慰められたり、謝られたりすることを期待しているみたいに読めるからだ。でも違うのかもしれない。そう読んでしまうということは、私が本当は慰められたり謝られたりしたいだけなのかもしれない。だったらいっそ「悲しいので慰めてください!」と言ってしまったほうがいいような気がする。でも私は慰めてほしいわけでも、謝ってほしいわけでもない。自分が何を求めているのか分からなくて、ほとほと困っている。

 

まだずっと考えている。たとえば、この文章は私が、私の矜持を守るために書いた。他の誰のためでもなく、私のためだけに。途中までそう思っていた。けれど書きながら、「この文章を読んだ誰かの気が、少し楽になればいいな」と願い始めた。それはなんだかとてもずるい気がする。自分の戦いに他者を巻き込もうとしているからだ。そろそろ私は自分のずるさを認めるべきなのかもしれない。でもできればずるくなく生きていたい。そんな自分に呆れてもいる。

 

このモヤモヤを、怒りではなく悲しみだと気づけた自分のことは、結構好きだ。文章にしてよかったなと思った瞬間でもある。「新海誠好きの元彼」同人誌企画の思い出エピソード投稿フォームを見るとまだ悲しくなるけれど、企画自体に潰れてほしいわけではまったくない。アーカイブする価値のある同人誌が生まれることを、私は心から願っている。

 

filmaga.filmarks.com

 

追記(企画者からの応答を受けて)

企画者の三宅香帆さんに、とても真摯な姿勢での応答を、それも迅速にいただけたので、ここに記しておきます。企画の意図や、同人誌で出そうと思った理由、考えていた目次構成なども丁寧に説明してくださっています。時間を割いて寄り添ってくださり、ありがとうございました。

 

note.com

 

気になった部分が1つだけあるので、今の私の考えを書きます。自分に都合のいいところだけ引用してしまってすみません。ここを読んでいる皆様には、上記のnoteを全文読んだ上で、この先に進んでいただけたらな、と思っています。

 

そもそも私は「新海誠好きの元彼」といった時点で「そんな彼と付き合っていた自分」を自虐する視線も含まれるものだと考えていました。

 

私は「新海誠好きの男性と交際していた」ことも「そんな彼と付き合っていた自分」のことも、まったく自虐する必要のないことなのではないか、と捉えていたので、投稿フォームの文章を読んだときにこの含みがまったく理解できていませんでした。その「自虐しなければどうしようもない気持ち」は、当事者にしか分からないものなのかもしれませんが、理解しようと試みることはやめたくないなと思います。また、自虐そのものについても理解が浅く、そのせいで三宅さんや、読んだ方を傷つけてしまったかもしれません。どちらも、申し訳ございませんでした。今後の勉強や書く文章を通じて向き合っていきたいです。

 

いつか三宅さんの新海誠作品批評や、新海誠作品受容史のアーカイブが読めることを楽しみにしています。真摯に対応してくださり、本当にありがとうございました。